財団創設者 土肥慶藏とは
当財団は、明治の偉大な皮膚科医である東京帝国大学(現・東京大学:以下、東京大学と略)医学部皮膚科教授の土肥慶藏が1905(明治38)年に創設したものである(図1)。
土肥は、1901(明治34)年に日本皮膚科学会を創設したが、当時猖獗を極めていた梅毒などの性病撲滅のため、1903(明治36)年の第3回日本皮膚科学会総会の席上で、警察医長 医学士 栗本庸勝と共に当財団の設立を発議したのである。
土肥慶藏は1866(慶応2)年6月に福井県武生の府中松原で生まれた。
1880(明治13)年11月東京大学医学部予科に入学し、1890(明治23)年12月東京大学医学部を卒業。1891(明治24)年1月東京大学医学部外科のお雇いドイツ人教師スクリバ教室に入局した。
スクリバ教室での初期研修を終え、1893(明治26)年5月、私費留学にてドイツ・ハイデルベルク大学外科チャーニー(Cerny)教授の許へ留学した。
1893(明治26)年7月、ハイデルベルクに到着し、8月夏休みでライン川に旅行に出かけた留守中に、東京大学医学部外科および皮膚科教授の宇野朗より 「皮膚科に転向せよ」 との来信あり。これは、彼が帰朝後に東京大学皮膚科教授を約束するものであった。
これを天命と受け止めた土肥慶藏は、皮膚科学を修めることを決意し、翌1894(明治27)年1月、ウィーン大学のカポジ教授を訪ね、2年間皮膚科を習得した。
その後、ブレスラウのナイセル、ベルリンのニッツェ、パリのギョンの許で泌尿器科を学び、合計5年間に渉り、欧州で皮膚科、泌尿器科 を習得。
1898(明治31)年1月帰朝し、2月19日東京大学助教授、6月28日教授となった。
土肥慶藏は欧州での勉学中、ウィーン大学皮膚科病室に広大な梅毒病棟があり、極めて多数の梅毒患者が収容されているのを目撃している。
往時は梅毒や淋病などの性病(花柳病)に対する特効薬は存在せず、欧州では猖獗を極めていた。これをつぶさに見た土肥慶藏は、性病予防の必要性を痛感したものと思われる。このため、皮膚科学ばかりでなく、泌尿器科学をも勉強し実地に教育を受け、「泌尿器科学を我が連れ子として本邦に持ち帰った」のである。何故ならば淋病は泌尿器科学の担当疾患であったからである。
その当時の欧州市中における性病罹患率はかなり高率であった。
1877(明治10)年頃のコペンハーゲンでは市民の性病罹患率は2.9%(淋病2%、軟性下疳0.5%、梅毒0.4%)であった。しかし、一生涯の積算で各個人を見た場合、5%の人が梅毒に罹っていたという。
同様にドイツのベルリンでは積算で見た場合、市民の4%に梅毒がみられたという。これは成壮年男性市民の約10%に梅毒患者があったことになり、驚異的な多さである。また、淋病は殆どの男性が生涯に1回以上罹る計算になるという。